事件を見にゆく / 東京三鷹・牟札事件
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高裁・死刑囚証人編

東京三鷹・牟札事件

◆「女家主殺人事件」またの名を牟礼(むれ)事件...

◆三鷹・渋谷・丸の内・世田谷・・・さして労苦を伴う移動ではないが、「昔の不動産ブローカー」におもいをはせ、なくなった美人の頭蓋骨と乳バンドもついでに探してみよう...昔のブローカーのやり口を調べたりもしているのでやや時間がかかるかも知れない.

◆1950年といえば映画でおなじみの安藤昇安藤昇あまなつAdhover 安藤昇サンが渋谷区宇田川町にバー「アトム」を開店した年.銀座で、在日ヤクザ・蔡に、左頬を切られ蔡の兄は、蔡と安藤との和解を望んだが1ヵ月半後、喫茶店で安藤昇の舎弟たちが、蔡を捕まえて刺殺.1957東映第4期ニューフェース*1、「よこはま・たそがれ」作詞の山口洋子*2なんかと同棲していた人だ...こんな時代に渋谷を戻して事件を見にゆこう.

◆血痕らしきものが残り他の下着とは明らかに違う変色をしていた乳バンドもなくなっているが...元旋盤工はムショ仲間(実はスパイ)に刺殺と漏らしており一致...自宅警備員に託せば、それが進駐軍のメカケ・愛人にふさわしいものか今ならすぐにわかるはずである.そもそも高文試験に受かるほどのエリートたちが、餌をばらまき全国に散らした自分たちの番犬裁判官の出した判決をおめおめと無用心に信じるわけがなく、判決を執行できるのかスパイを使い監視しているのはネットど同様である.

◆とりあえず死因は「刺殺・失血死」としてスタートしたい.一通の供述調書もとらせなかった「犯罪のプロ」に対してこれをあばいた世田谷・渋谷警察署担当捜査員に敬意を表するものである.今日<OB支配の検察審査会で2,3度グダグタやられ却下だろう>と違い一介のメカケの母親の願いを無視せず「再捜査」に応じ共同正犯をあばいた署員に墓石がわかればすずらんの花束でも供えたい...のであるが、共犯者松原が真の実行犯であることもよくある話で警察は証言をとりたいがため司法取引(懲役10年=5年で出所)もよくある話で...裁判官を仕切る側がやはり「死刑執行」できなかった理由は存在する.

  • 佐藤(当時不動産業)*3が、この女性が家屋を売りに出しているのを知り、台湾出身の男と元旋盤工の三人で共謀、牟礼に女性を呼び出して殺し、権利書を奪った容疑.元旋盤工と同じ刑務所にいた三人の同房者「彼は『佐藤の名前を出したが、あれは事件に無関係』と漏らしていた」と証言.
  • 1950/04/15過ぎ 東京・渋谷区神南の一軒屋に一人で住んでいたアメリカ軍属チャーリー愛人・祝田玉穂さん(当時21歳)<元デパガ>が、土地家屋や家財道具を売り払い失踪.母親は警察に捜索願.

事件関係地図

  • 遺体発見現場:神明神社わき - 東京都三鷹市牟礼二丁目6番12号
  • 玉穂さん宅:渋谷区神南 - 被害者がチャーリーに囲われていたという
  • 売却した自宅のあった世田谷区北沢 - 佐藤は電気乾燥機事業で高利の金に手を出したという
  • 玉電(現:世田谷線)松陰神社前駅前 - 佐藤が無頼漢を集めていた二間間借り住宅.殺害謀議があったとされる.夫が外地から未帰還、間貸
  • 東京都目黒区東横線中目黒駅前 - 玉穂さんが頼んだ不動産屋<国籍不明>.佐藤が玉穂さんを知るきっかけ
  • 大宮鉄道工場(M27-)現:埼玉県さいたま市大宮区錦町 - 自白共犯者 前勤務先.無職→ダンスホール出入り
  • 埼玉県大宮市高鼻町(現:さいたま市大宮区高鼻町) - 共犯の殺人実行犯宮沢寿雄の逮捕地

経 緯

  • 1949/11 玉穂さん、かねてより(性)交渉を有していた米軍軍属の出捐を得て、渋谷区神南町の住宅(木造平屋瓦葺、建坪約48屐1棟を土地(約142屐砲弔で、前所有者から代金合計45万円で購入.
  • 1949/08[浦和地検]佐藤誠、偽造公文書行使詐欺罪(埼玉県小川町警察署)浦和地方裁判所熊谷支部に起訴.約2ケ月間勾留.懲役1年6月、執行猶予3年.1951/03/18確定.<佐藤はこの犯罪でも「高橋三男」を名乗っているとする(検察)>
  • 1949/11 佐藤誠、世田谷区北沢所在の所有住宅売却.同区世田谷で間借り(6世帯同居・米軍人も居住.ピストル窃盗事件あり<佐藤:無職無頼徒を出入宿泊させていた>)居住.定職なし.大勢の妻子を抱えて生活費等に窮す<長男(当時16歳)、次男(14歳)、長女(12歳)、次女(9歳)、四女(4歳)と、50年4月14日*4が8歳の誕生日となる三女の6人のこども.学齢期の子は、私立学校通学>.
  • 1950/03<もう少し早いのか?> 東横線中目黒駅前の不動産仲介業に、土地家屋の売却あっせん方を申込<冒陳>.
  • 1950/02 高橋、東京都目黒区東横線中目黒駅前所在、不動産売買仲介業者と宅へ物件確認.一人暮らし確認<「一人暮らしを奇貨として...(地裁判決)」>.その後業者を経ず訪問.
  • 玉穂さん愛人チャーリー九州転属.2人で暮らした神南町の家で生活.この家を売却し「銀座近くでおしる粉屋か洋裁店を開きたい」と生活苦を友人に相談.渋谷道玄坂近くのある不動産会社に依頼、丸ビルに事務所<台湾バナナ貿易会社事務所を企てていた>を持つ社長「高橋」という男が買人で登場.
  • 玉穂方を訪れ、物産会社社長・高橋三夫と名乗り、土地家屋買い受けの申し込みをなした。はじめ、佐藤の意図は、詐欺手段で、玉穂から土地家屋を騙取しようとするにあり、珠子に対し、「自分が土地家屋を買って、秘書に住まわせる。また、貴女の引っ越し先も世話するし、場合によっては、貴女を自分の秘書に使ってやってもよい」
  • 1950/03/01?<年月日未確認>[登記所から母ソノさんに連絡]「いまあなたの家のことで、ある男が来ている」ソノさん、登記所へ急行.ロイド眼鏡をかけた55、6歳の男.苅田香郎(当時51歳)「ここの係の人に登記のことは承知したと言え。だいたい、婆さんがでしゃばっては困るな」と脅迫==すでにブローカーが動いている
  • 1950/03/31[渋谷簡易裁判所] 松原 窃盗罪により懲役10月、執行猶予3年.1950/04/15、確定.
  • 1950/04/12 佐藤は、松原を自宅に呼び寄せて、松原に対し、「いままでの詐欺の方法ではだめだから、祝田を殺して、土地家屋の権利関係書類を奪ろう。昨日、柯武発と2人で小金井のほうを見てきたら、殺すのによい場所がある。殺して後、埋めてしまえば、証拠が残らないから安全だ」等と申し向け、松原は、当初、これに反対したが、松原自身も、金銭に窮していた折から、佐藤に説き伏せられて、ついにこれを承諾し、同席した柯武発も、計画に加わって、ここに3名にて祝田玉穂を殺害して、前記土地家屋の権利関係書類等を強取することを共謀'...(1954/10/25東京地裁判決)
  • 1950/04/12 16:00 被告両名で、同女をその居宅に訪れたが、同女の手元にある前記土地家屋の権利関係書類が不備であったため、同女に対し、至急右書類を整備するよう要求(1954/10/25東京地裁判決)
  • 1950/04/13 玉穂さんの家に、高橋の秘書である「原」<=宮沢寿雄か>という男が来て、「話が決まれば、お金も払うから渋谷駅前ハチ公の銅像前まで来てくれ」玉穂さんは前夜から泊まっていた友人と一緒に3人で高橋に会う.
  • 1950/04/13 17:00 玉穂、長嶺たま(友人)、高橋、原の4人 地下鉄で新橋駅.友人と別れる.祝田玉穂さん:「あなたから借りたお金もこれで家が売れれば返せる」返済の待ち合わせの場所については「銀座で逢いましょう」と指定.
  • 「50年4月13日、自分(佐藤)は松原、祝田玉穂、長嶺たまと渋谷駅から新橋駅付近まで、行動をともにしたことは事実であるが、自分は当日、下痢していたため、新橋駅付近で別れて、単身帰宅したので、何ら本件犯行に関与していない」と弁疎(地裁判決)...と「同行」を認めてしまっている.
  • (佐藤の弁疎について)「なお、佐藤は、本件犯行をすべて否認し、特に判示第2の犯行につき、本件土地家屋は、当時大阪の繊維商高橋三夫の秘書格である原保と山田珠子との共有になっており、自分は高橋および原から依頼されて、本件土地家屋の売却斡旋の労をとったに過ぎない。」(一審弁護人)==実は登記簿を見ていないので意味不明弁護.架空の人間の住民票をどうやって用意できたのか
  • 1950/04/13 東京渋谷区神南町の一軒屋(愛人の米軍将校にもらった家屋/九州転属で別れる)に1人で住んでいた祝田玉穂さん(21歳)失踪.
  • 1950/04/12 20:30 殺害<刺殺説>毒殺説>絞殺説>
  • 「時間がおそくなって、事務所がしまったから、金は友人方で支払う。帰りは自動車で送る」渋谷駅を経て、井の頭線三鷹台駅に下車.
  • 「佐藤は、詐欺手段では、これを入手するのがきわめて困難なことを感じ、むしろ、玉穂を殺害して、玉穂から土地家屋関係書類を奪取して、登記手続をなそうと計画を変更し、あらかじめ、柯とともに、殺害に適当な場所の下見分も済ました上、同月12日、佐藤方において、松原および柯も加えて、3人で次のごとき実行方法を謀議した。すなわち、その実行方法は、売買代金を支払うふうを装って、玉穂に関係書類を持たせて、(都下)小金井のほうの予定の場所に誘い出し、柯が松原と協力して、玉穂の首を絞め、佐藤が注射器で、珠子の口の中に青酸カリ液を注ぎ込んで、殺害した上、書類を奪い、死体は埋めようというのであった。」
  • 「13日午後4時ごろ、佐藤は、渋谷駅で待ち、松原は、玉穂方におもむき、「渋谷の社長の事務所で、売買代金を支払うから来てもらいたい」といって、午後4時30分ごろ、玉穂と長嶺を誘いだし、渋谷駅で佐藤も加わり、「まず、引っ越し先を見せる」という口実で、地下鉄虎の門に出て、それから、新橋駅方面に歩き、途中、ビルの部屋を2カ所ばかり見せた。この部屋は、被告等とまったく無関係のものなのである。そして、午後6時ごろ、新橋駅前付近で、長谷川が一行と別れると、被告佐藤は、玉穂に、「友人宅で金を払う」とあざむいて、3人で、井の頭線三鷹台駅まで、電車で行って、そこで下車した。柯は、佐藤との打ち合わせに従って、犯行現場なる神社で、佐藤方から持ち出したスコップを持って待っていた。 両被告は、玉穂を右犯行現場まで誘引し、台湾人柯武発と落ち合うや、周囲に人影なきを見定め、まず、柯武発が背後から玉穂の首に腕を回し、松原が足払いをかけて、玉穂を仰向けに倒し、ついで、柯が玉穂の上体、佐藤が下体の上に馬乗りとなり、松原が玉穂の頭の上方に位置して、玉穂の頭部を押さえ、柯が玉穂の頸部を、両手で絞扼すると、玉穂は苦悶の形相を示しながら、まもなく、絶命してしまった。 それから、腕時計を奪い、両被告が柯の携行せるスコップを使って、付近の土を堀り、玉穂の死体から上衣類を脱がせて、下着だけの姿にして、穴の中に入れ、土をかけて埋めた。その時刻は、午後8時30分ごろであったと認められる。」<検察官冒頭陳述>
  • 1950/04/14 友人との待ち合わせ場所(銀座)に玉穂さんあらわれず.友人 玉穂さんの自宅に向かうと、見知らぬ男が家の前にウロウロ.
  • 1950/04/15 高橋、原を含めた4、5人、玉穂さんの家財道具をオート3輪に積んで運び出そうとする.友人と母親ソノさん(世田谷在住)に「家が売れた。玉穂に荷物もちでに売ってくれと頼まれたので、今処分している最中です。玉穂さんは日本橋の高島屋の裏のアパートに引っ越しました」
  • 1950/12/20[警視庁世田谷署]家財道具を搾取した容疑で東京・世田谷の商事会社社長・佐藤誠(当時42歳)逮捕.ロイド眼鏡ブローカー・苅田香郎(当時51歳)も窃盗容疑逮捕.検察:証拠不十分で高橋釈放.
  • 「土地家屋などの売買は、商事会社の高橋三夫と名乗る男(=佐藤誠であろう)と、高橋の秘書で原保という男に依頼されたまでのこと。家財道具を古道具屋へ売ったのは確かに私ですが、全ての代金は2人に渡しました」
  • 母親:弁護士を通じて警視庁捜査1課へ直訴.再捜査開始.
  • 1952/09/25[澁谷署]家財道具搾取の容疑で宮沢逮捕(埼玉県大宮市高鼻町).土地・建物の奪取目的の誘拐・殺人・死体遺棄の疑い(当時25歳)元旋盤工.
  • 宮沢:埼玉の大宮鉄道工場退職後、ほとんど定職なし.1948/01大宮市内のダンス教習所に出入りしている中、佐藤と相しるにおよび、無職無頼の徒に加わって、しばしば被告方に出入りしていた...
  • 1952/02/08 00:00 佐藤の命令で田中という男と東京都港区内のガレージにおいて車窃取(モーリス38年型普通中型乗用車1台)<佐藤は浴場営業経営者に売れとばすハラ.売れずに放置>.
  • 「佐藤と台湾人 柯武発(23歳くらい.1950/05/05 渋谷駅付近で倒れ、救急車で都立病院.07/02結核死)と3人で玉穂さんを殺害、三鷹市牟札に埋めた。主犯は佐藤で、自分はそそのかされてやった」
    • 宮沢自白:玉穂さんの殺害方法で宮沢は扼殺と毒殺と場面によって異なる供述.拘置中の同房者に「玉穂を刃物で刺し殺した」と話していた記録.
    • 柯武発:死の直前、「高橋三夫から預かった書類を佐藤誠に渡したが、佐藤が返してこないので裁判で訴えてやる」
  • 1952/10/01 佐藤 総選挙参謀(東京・多摩地区から立候補した無所属候補者)惨敗<選挙違反内定>
  • 1952/10/03[澁谷署]窃盗容疑で佐藤を逮捕(中央線公園時駅踏切付近で窃取教唆)<44歳>.
  • 1952/10/07 東京三鷹市牟札神明神社で玉穂さんらしき白骨死体を発見(宮沢自白)*5.頭蓋骨に鈍器で殴られたように陥没.下着には血痕のシミ付着.佐藤、宮沢を殺人罪で再逮捕.
  • 神明神社脇の農道中に穴を掘り、その穴は「やや長い楕円形で、穴の長さは1m10cm、幅40cmの大きさで、深さは地上より、頭部において60cm、臀部において75cmに掘られて埋めてあった」(検証調書)
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  • 腐食したシュミーズ+ズロース+薄きもの+乳バンドらしきもの4点発掘.「特に乳バンド様布片に、血痕らしきものの付着せられたるをみる」(警視庁刑事科学研究所の技師が鑑定)+4枚1組の櫛のうちの1つ
  • 乳バンドとはなんぞや:日本では1929年頃(昭和の初期)「乳バンド」「胸美帯」「乳おさえ」「乳房バンド」等の名称で新聞や広告に掲載され始めた.戦後、1949年下着メーカー「ワコール」前身和光商事がスプリングの付いた「ブラパッド」を発売...ITはなにかしらの情報がある兵器ならどこかに当時発売品の画像があるであろうw...うまれてこの方女体を吟味したことがないので知らん←「乳バンドには布が補填してあり→腐敗汁・体液・血液が土中にぬけない可能性がある...」(NHK「都の風1986/10-06-1987/04/04連続テレビ小説で沢木雅子(悠の女学校の友人、智太郎の妹):山本博美嬢が装着してへっぽこ探偵のため<ウソ>見せたとのこと)
  • 1952/10/23[東京地検]佐藤&宮沢 強盗殺人・死体遺棄の罪で起訴<強盗殺人罪、死体遺棄罪、起訴済み自動車窃盗事件併合>
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  • 1952/12/12[東京地裁]初公判.「50年4月13日、同女に対し、右不動産買い受け代金を支払う旨申し向けて、同日午後8時30分ごろ、同女を東京都三鷹市牟礼の路上に誘致し、同所において、同女を3人がかりにてその場に押し倒し、その頸部を手にて強く絞扼し、よって、同女をして即時窒息死するに至らしめて殺害し、同女所有の前記不動産に関する建築申請届等権利関係書類一括および金側腕時計1個*6等を強取した上、同女の死体より着衣等を取り除き、前記路上付近土中に右死体を埋没し、もって、これを遺棄したものである」

土地建物権利関係<世田谷署調べ><検察官釈放事件>

  1. 前所有者♀、49年春ごろ、本件家屋を新築したが、祝田玉穂に売り渡す当時も、いまだ保存登記を完了していなかったので、土地についてのみ、祝田玉穂との間の移転登記手続をとり、家屋については、なんら登記手続をとらずに、ただ、建築許可証等の書類のみを祝田玉穂に渡しておいた。そして、祝田玉穂もまた、家屋の保存登記手続をとっていなかった。
  2. 祝田玉穂は、不動産仲介業者に対し、家屋を代金45万円ぐらいで売却のあっせん方の申し込みをなした後、まもなく、大事業をやっていると自称する年齢40台ぐらいの男が、小林の案内で、祝田玉穂方に行き、家屋等を見分した。
  3. この男は、祝田玉穂に対し、物産会社社長・高橋三夫と名乗り、直接祝田玉穂と代金35万円で、右土地家屋を買い受けるという契約を結び、さらに、祝田玉穂に対し、引っ越し先の世話も引き受けると約していた。
  4. 祝田玉穂は、同年4月上旬ごろ、前所有者宅を訪れて、土地家屋を高橋三夫という会社社長に35万円で売り渡すことにしたから、家屋の保存登記を済ましておいてもらいたいと申しでた。*7
  5. 高橋三夫は、祝田玉穂に対し、同年4月13日に売買代金35万円を支払うことを約束していたが、その4月13日午後、高橋の秘書と称する男が、祝田玉穂方を来訪し、「これから、代金を支払うから、来てくれ」というので、祝田玉穂は、午後4時30分ごろ、自称秘書およびたまたま遊びに来あわせていた友人長嶺たまとともに、渋谷駅に行き、高橋三夫と落ち合った。すると、高橋が、「まず、祝田玉穂の引っ越し先の部屋を案内しよう」というので、4人で地下鉄で、虎の門に出て、そこから、徒歩で、新橋駅のほうに向かい、途中、高橋の案内で、ビルの部屋を2カ所ばかり見た。それから、4人は、国電新橋駅付近まで来て、長嶺たまは、そこで、ほかの3人と別れて帰宅した。その時刻は、午後6時ごろであった。別れ際に、長嶺たまは、祝田玉穂と翌日午前10時に、銀座で会おうと約束した。
  6. 翌4月14日、長嶺たまは、祝田玉穂との約束どおり、銀座で待ったが、祝田玉穂は姿を見せないので、祝田玉穂方におもむくと、錠がかかっていて、戸が開かなかった。そこに、高橋三夫があらわれて、「祝田玉穂は、米人と日本橋高島屋付近のアパートに引っ越した」というので、長嶺たまは、高島屋付近を探したが、祝田玉穂の行方はわからなかった。
  7. さらに、翌4月15日には、前記のごとく、祝田玉穂の母ウノが、祝田玉穂方を訪れて、高橋三夫と会っている。
  8. 高橋三夫は、4月15日、祝田玉穂方より運びだした家財道具類の一部を、同日、渋谷道玄坂の古物商に売り渡した。
  9. そのころ、高橋三夫が旧所有者♀宅を訪れ、「今度、祝田さんの家を買うことになり、家屋の登記のことは、一切自分が祝田玉穂さんに任せられている」といって、前に祝田玉穂に渡しておいた建築許可証等を示したので、これを信用し、数日後、高橋に対し、保存登記申請手続のための白紙委任状を交付した。
  10. 同年4月下旬ごろ、佐藤が、知人に対し、「高橋三夫および原保という男から、渋谷の山田の土地家屋売却あっせんを頼まれているが、ひとつ買い主を捜してくれないか」といって、売買あっせん方を依頼し、土地家屋関係書類を交付した。
  11. そこで、知人は、同年5月1日、前所有者の代理人の資格で右家屋の保存登記申請をなし、さらに、別の不動産仲介業者等を介し、会社代表に対し、土地および家屋を代金合計32万円で売り渡し、代金中26万円ぐらいを佐藤に交付した。
  12. また、そのころ、○が佐藤の依頼により、理髪業・△の長男・▲をして、祝田玉穂方から残家財中布団等数点を搬出せしめた。
  13. しかして、各参考人の供述より見るに、前記(10)以外の高橋三夫は、佐藤と同一人物と認められる状況であった。 以上の状況のもとに、世田谷警察署では、同年12月、佐藤を祝田玉穂方からの家財持ち出し窃盗事件の被疑者として逮捕し、当検察庁に送致したが、佐藤は、「家屋売買については、原保の依頼により、そのあっせんを行ったものであり、家財搬出も、その指示に基づくものである」と弁解し、原保および前記(5)記載の高橋三夫の秘書なるものの正体、また、祝田玉穂の生死所在も判明せざるままに、中止処分にふした。 その後も依然として祝田玉穂の消息は不明だったので、母・ソノは、52年2月ごろ、弁護士を介して、警視庁に捜査方を依頼してきたので、捜査第一課の内偵捜査が開始され、その結果、前記(5)記載のごとく、50年4月13日に、祝田玉穂方に来訪し、祝田玉穂を外に誘い出した高橋の秘書なる男は、松原であり、同人は、同年4月15日の祝田玉穂方からの家財持ち出し者の1人と判明し、ここに事件解決の端緒が発見された。 そこで、警視庁は、なおも内偵を継続した上、52年9月25日、松原を祝田玉穂方よりの家財持ちだし窃盗事件被疑者として逮捕したところ、余罪として、両被告共謀による本件自動車窃盗事件が発覚したので、同年10月3日、佐藤を本件自動車窃盗事件の被疑者として逮捕し、さらに、捜査をなした結果、松原の供述等から、漸次、後記のごとき、強盗殺人事件の全貌が明るみに出され、同月17日には、松原の指示する場所から、祝田玉穂の白骨死体を発見し得た。当検察庁および警視庁では、なお、捜査続行の必要上、同月21日、石原を、翌22日、佐藤を、それぞれ強盗殺人被疑事件に関し、逮捕の手続をとった。
  • 1954/10/25[東京地裁]佐藤に死刑判決、宮沢被告人に懲役10年判決(求刑無期懲役).宮沢控訴せず確定<1959仮釈放>.佐藤:控訴.
  • 1955/01/27 控訴趣意書提出 「認めれば無期、認めなければ難しい」弁護士+1953開業駆け出し弁護士
  • 1957/06/20[東京高裁]控訴棄却.上告.

高裁 死刑囚証人登場

◆このあたり詳しい旧知の白髪自称ジャーナリストをJR「大宮工場見学」帰り神田某古書店で待ち伏せw...「勉強家になったな、you本屋にもくるのか?」「・・・じ、実はムレ事件を調べていて・・・あと一冊たりない・・・お持ちなら頂戴!」・・・顔色を変えて店外へ・・・な、なんで? ○死刑囚二名・・・松原と被害者祝田玉穂「パンパン=(松原談)」はナジミでせくす関係あり・・・土地建を売る話はあとから出てきた・・・売却話を持ち込み佐藤翁の払った不動産代金を仲間でわけた...

公判記録整理中 ふ−−−高裁・死刑囚証人編

  • 1958/08/05[最高裁]上告棄却.
  • 1958/09/05 判決訂正申立、棄却、死刑判決確定.
  • 1960/01/26 東京拘置所から宮城刑務所仙台拘置支所に移送<仙台には「バタンコ」がある>.
  • 1960/02/12- [東京地裁]第1次再審請求.再審請求棄却.第8次再審請求まで
  • 1964 第1歌集『幻の死囚』出版...『白きいのち』『自由か死か』『神の沈黙』『真昼の暗黒』など9冊の短歌集出版.
  • 1972 「牟礼事件全国連絡会」結成.
  • 1977/09 離婚した妻病死<知らせず>*8.
  • 1978/05/19[東京地裁]シュミーズ、ズロース、乳バンドなどの証拠物を国庫帰属・廃棄処分決定(1978/05/30焼却...という...その前からない>
  • 1978/12 短歌誌『スズラン』(改名)、20号からスタート<死去まで計123号発行>.
  • 1981/05[拘置支所]「死刑囚の執行前の心情の不安を除くという処遇の範囲を超えたものだ」という理由で、獄中での編集作業禁止.
  • 1984/01/04[東京地裁]第8次再審請求提出.
  • 1984/03 新規面会禁止
  • 1985 『スズラン』掲載 主幹通信(毎月の近況報告)禁止→1985末-宮城・牟礼事件佐藤誠さんを守る会 女性副会長、『しづがわ通信』発行開始.副会長あてに届いた佐藤の手紙から抜き書き、近況を伝える.
  • 1987/05/10 帝銀事件平沢、八王子医療刑務所で病死(1985/04八王子医療刑務所に移された.再審請求18回.恩赦出願5回)
  • 1987/07/21 刑務所内病舎で盲腸手術.
  • 1987/08/30 同じ拘置支所収容 死刑囚赤堀政夫、静岡刑務所移送<静岡地裁再審開始決定>.
  • 1988 短歌添削禁止.
  • 1989/01/24 養子縁組(東京 46歳女性)==62年ごろ、遠縁にあたる佐藤が無罪を主張しているのをしって、文通開始.「帝銀事件の死刑囚が再審請求を続けるため、したのを見て、私も養女になろうと決心した.父が再審無罪をかちとるまで、私なりに頑張りたい」
  • 1988/04/30(1988/05/02?)[東京地裁]第8次再審請求棄却<再審弁護団8人>.
  • 1988/05/05[東京高裁]即時抗告.
  • 1989/05/22 宮城刑務所長に対して恩赦出願(特赦(有罪判決を無効にする)と特別減刑の2つ)<01/07昭和天皇崩御>→06/23取下.
  • 1989/07/26 スズラン短歌会の会員(82歳)と獄中結婚.
  • 1989/10/27 くも膜下出血病死(享年81).身柄拘束37年間←最判1985/07/19[参考]
  • 1989/11/03 牟礼事件全国連絡会解散.
  • 1990/01 歌集『天の梯子』死後出版(10冊目)
  • 1990/01/26 『しづがわ通信』31号終刊.
  • 1990/10 『スズラン』「佐藤誠主幹召天1周年記念」通算123号終刊.
  • 1990/07/25 佐藤が同人であった歌誌『石菖』の人たち、約140基の詩歌碑の立ち並ぶ、新潟県笹神村の県立五頭自然公園 やまびこ通りに佐藤の歌碑を建立...忌はしき罪きせられていとほしむ犯さぬ己が身おきが心を
  • 1988/11/07[東京高裁]再審終了決定(請求人死亡のため).
  • 1988/11/24 弁護団解散.

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  • 「2年前の美人家主殺害事件」と題して、「佐藤は、取調官に対し、きわめて平静を装い、共犯者松原がすでに犯行を自供しているにかかわらず、女家主の殺害事実については頑として否認し、その自供からは何ら得るところはなかった」「佐藤が殺害したという直接証拠となるものは、遺憾ながら発見されていないことである。共犯者の自白と参考人の供述並びにその他の客観的証拠によって、事実を認定し得るに過ぎない」「もし、松原が、公判廷において自供を覆したとすれば、松原の単独犯行と推定されるおそれも多分にある」「希わくば、何か直接証拠を発見したかったが、係員の努力にもかかわらず、これを発見できなかったことは残念であって、公判維持上、若干の危惧がないものでもない」(警視庁刑事部の発行した『刑事資料特集号「重要事件検挙事例−犯罪捜査の教訓」』)
    • 当時の捜査官の無念振りが正直に告白されている点が他の「冤罪事件」と違う.
  • 佐藤という男はもともと電気通信屋、電気屋には法律は無理。不動産登記はあっても売買が無効なら消されることや「共謀共同正犯」<建築確認書・土地権利証をなんとしてでも女から取って来い・・・の謀議に参加していれば殺人罪を問える.これで知らぬ存ぜぬ・部下が勝手にやったと逃げ回る暴力団組長も実行犯とともに逮捕できるが適応範囲を広めると組合・会社などの「会議」にもうかつに参加できなくなるのはご存知のとおり>をしらなかったんだろう。無罪の根拠は殺人の「殺人の実行行為」を自分がしていないということかもしれない。当日下痢で殺害を二人に任せて帰ったことにして殺人に関してはは無罪と判断する裁判官はまだ二割程度残しているだろう。。。
  • 解せないのは、佐藤「先生」が共犯者を民事・刑事で訴えていない点(対決姿勢を見せていない)<控訴審で直接質問しているが>・・・また当日のアリバイも積極的に再審請求に書いていない点<家に帰宅とあるが女房が認めていない>である。
  • 捜査鑑定の過程で頭蓋骨紛失.下着は裁判所で処分.
  • 佐藤は、仙台拘置所で「帝銀事件」平沢貞通と親しく交わる.松葉雅人 ペンネーム==ヘドの出るような恨みつらみの句のみである.
  • [最判1985/07/19]平沢 1985年5月で確定後30年を迎えるのを前に、死刑囚30年時効論争.刑法第32条には、「時効は刑のいい渡し確定したる後、左の期間内、その執行を受けざるにより完成す」として、「死刑は30年」.平沢はこの条文により、30年で時効だと訴えた.この裁判に備えるためということで、平沢は、85年4月、八王子医療刑務所に移された.最高裁判決:1985/07/19:刑法第11条、「死刑は監獄内において、絞首して、これを執行す。∋犒困里いづ呂靴鮗けたる者はその執行に至るまで、これを監獄に拘置す」とあり、この規定で拘置されている者には、時効は進行しない...この決定後も平沢は八王子医療刑務所にとどまり、95歳で病死.



*1 同期:曽根晴美、佐久間良子、花園ひろみ
*2 山口洋子(やまぐちようこ)1937/05/10- 作家、作詞家.愛知県名古屋市出身. 京都女子高校中退.経営していたクラブ「姫」からなかにし礼(牟礼の礼で思い出したわけではない)と同棲していた田村順子
*3 1908(明治41)/01/01生.日立市 高萩高校→東京工業高校電気科夜間部卒.東京無線電信学校・中野高等無線学校講師.工業教育電気工学、電気磁気学、交流理論などの著書.1945 佐藤物産設立(電気溶接機・電動機・変圧器等の販売修理).1950日本紳士録刊行会設立、事務局長.1951人事新聞社設立.太平洋戦争中は飛行機部品製造業.乾燥装置付自動電気電気洗濯機 実用新案特許取得<自動洗濯機の製造、販売などを行おうと高利の金を借り借金完済のために北沢にあった自宅売却>.東京航空工業蠎卍.帝国電気製造蠎卍.産業同士会理事.電気工業会理事
*4 1950/04/14 犯行日前日、佐藤下痢.帰宅時間不明佐藤が誕生日の前日にお昼早々であったか、あるいは午後2時ごろであったか、よくはわかりませんが、せっかくのご馳走も食べられないといって出ていったのですから、午後に外出したと思いますが、それもはっきりしません」<女房証言>
*5 山田珠子生前側面写真と発掘頭蓋骨とのスーパーインポーズによる固体識別
*6 南京虫時計:万年筆程度の小型金縁婦人時計.戦後から昭和30年代後半にかけて流行った.佐藤妻「その時計は、私のものではありませんが、柯さんの友だちが、柯さんが飲む薬を買うので、その金をつくりに、佐藤を尋ねて来たのです。ところが、佐藤がいなかったので、柯さんの友だちは、私に、『奥さん、この辺の質屋さんをしりませんか。実は、薬が買いたいんですが、金がないので、これを質入れしたいんですが』といって、南京虫の時計を出したのです。そして、結局、通帳もないので、それでは質入れできないからと、私が質屋に行って、質入れしたのです」→冤罪説をとる人はこの時計を台湾人側がもっていたことを見逃してはならない.殺害主犯は台湾人で死体からはいだものは権利証も含め一旦、主犯の台湾人と松原の管理下に入りカネにするために時計はなにも知らない女房に、登記関係書類<委任状・実印は?>は不知の旦那佐藤にあずけたことになる.
*7 前所有者名で「建物表示登記」「建物保存登記」をすませそののち所有権移転登記を行う」趣旨、業者から指示を受けた
*8 『スズラン』1985/10:「主幹通信」「先日、牟礼事件によって離別しました妻の死を仄聞しましたので、別れた家族をお世話くださっている二審のときの弁護人の先生に問い合わせたところ、妻は、77年9月に病死したことが判明し、同時に義姉の死も判明しました。どうやら、私に心配をかけないために、いままでしらせなかったようです。77年といえば、67歳で他界したことになりますが、私の事件で苦悩したため、寿命を縮めたと思えば、哀れでなりません。ここ30年ぐらいは文通もしていなかったので、何もしらない人々は、薄情な女性と罵っていましたが、死刑囚の妻としられれば、近所づきあいはもちろん、仕事もできないのが実情のため、文通もできなかったのです。でも、妻は、戦前戦中を通じて、こどもらや2人の女中に囲まれて、庭で遊びながら、よく、『私、こんなに幸福でよいのかしら』といっていましたし、死ぬときも6人のこどもと大勢の孫に見守られていましたから、冥福したものと思っております」/長男53歳死亡.次男=母親同居=脳病 娘四人
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