日本書紀 / 天武天皇
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ニニギノミコト / 孝謙天皇 / 持統天皇 / 昭和天皇 / 神功皇后 / 神武天皇 / 聖徳太子 / 斉明天皇 / 長屋王 / 天智天皇 / 天武天皇

□天智と兄弟でないことは確認.日本書紀はめずらしく生年を書き忘れている.(というか書けなかった.天智を滅ぼした外来の征服王朝であろう)

わがあこがれの蘇我氏

越の海【全文】

天武天皇

  • 天武天皇(てんむてんのう)
  • 諡号:天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと) 生年不明 - 朱鳥元年09月09日(686年10月01日) 「皇統譜」代数:第40代
  • 在位期間  673年02月27日-686年06月09日

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  • 御名・異称
    天渟中原瀛真人 あめのぬなかはらおきのまひと 大海人 おおあま
  • 大海人皇子 おおしあまのみこ 生没年 ?〜686(天武15) 系譜など 父は田村皇子(舒明天皇)、母は宝皇女(斉明・皇極天皇)。中大兄皇子(天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇皇后)の同母弟。ただし出生を疑う説もある。正妻は初め大田皇女であったらしいが、その死後、菟野皇女(持統天皇)に代わったものと思われる。大田皇女との間には大津皇子と大伯皇女があり、菟野皇女との間には草壁皇子をもうけた。子には他に、高市皇子(母は尼子娘)、十市皇女(母は額田姫王)、長皇子・弓削皇子(母は大江皇女)、舎人皇子(母は新田部皇女)・新田部皇子(母は五百重娘)、穂積皇子・紀皇女・田形皇女(母は蘇我赤兄の娘)、忍壁皇子・礒城皇子・泊瀬部皇女・多紀皇女(母は宍人大麿の娘)、但馬皇女(母は氷上娘)などがいる。漢風諡号は天武天皇、和風諡号は天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇。万葉集には明日香清御原宮(御宇)天皇とある。 諱の「大海人」は、凡海(おおしあま)氏の養育を受けたことに拠る命名と思われる。凡海氏は海部(あまべ)を統率した伴造氏族で、『新撰姓氏録』には右京・摂津国居住の凡海連が見えるが、ほかにも周防・長門・尾張など各地に居住したことが史料から窺える。
  • 略年譜 立太子・天智7年(668)02月23日
    即位・天武2年(673)02月27日
    崩御・朱鳥元年(686)09月09日
  • 配偶者
    皇后・★野讃良皇女(持統天皇) うのささら
    妃・大田皇女、妃・大江皇女、妃・新田部皇女、夫人・藤原氷上娘、夫人・藤原五百重娘、夫人・石川大★娘、額田姫王、胸形尼子娘、宍人★媛娘
  • 御 父
    舒明天皇
  • 御 母
    皇后・宝皇女(皇極天皇・斉明天皇) たから
  • 皇子女
    十市皇女、高市皇子、大伯内親王、草壁皇子、大津皇子、忍壁親王、穂積親王、長親王、弓削皇女、舎人親王、新田部親王、但馬内親王、紀皇女、田形内親王、磯城皇子、泊瀬部内親王、多紀郡内親王、皇子某
  • 皇 居
    飛鳥浄御原宮 あすかのきよみがはらのみや……奈良県高市郡明日香村
  • 陵 墓
    檜隈大内陵 ひのくまのおおうちのみささぎ……奈良県高市郡明日香村

弓削皇子

  • 弓削皇子 ゆげのみこ
  • 生没年 ?〜699(文武3) 系譜など 天武第9皇子(続紀には第6皇子とある)。母は大江皇女(天智天皇の皇女)。同母兄に長皇子がいる。 略伝 693(持統7)年1.2、兄長皇子と共に浄広弐に叙せられる。持統10年、皇太子の高市皇子が薨じ、持統帝は王公卿士を禁中に召して立太子の件を諮る。葛野王(大友皇子の子)は「我が国家の法と為る、神代より以来、子孫相承けて天位を襲げり」と、兄弟相続は争いの種だとして、暗に持統の孫軽王子を推す。この時弓削皇子は何か意見しようとしたが葛野王に叱止されたという(『懐風藻』)。699(文武3)年7.21、薨ず。この時も浄広弐。大石王らを派遣して喪事監護する。同年12月には母の大江皇女も薨じている。 万葉には8首、「吉野の宮に幸しし時、弓削皇子の額田王に贈与ふる歌」(02/0111)、「弓削皇子の紀皇女を思ふ御歌四首」(02/0119〜0122。紀皇女は弓削皇子の異母姉妹)、「弓削皇子の吉野に遊しし時の御歌」(03/0242)、巻八の2首(08/1467・1608)がある。また「長皇子の皇弟に与ふる歌」(02/0130)の「皇弟(いろとのみこorすめいろと)」は弓削皇子を指すと見て間違いない。ほかに柿本人麻呂歌集歌の「弓削皇子に獻る歌」(09/1701〜1703・1709)がある。
  • マルコ山古墳の被葬者はこれまで、規模や立地から天智天皇の川島皇子(657―691年)や、天武天皇の弓削皇子(ゆげのみこ)(?―699年)らが想定されてきたが、その可能性がさらに高くなった。

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